2011年3月12日土曜日

東北地方太平洋沖地震 3/11(金)夜

横浜・中区は”震度5強”というTV報道をワンセグで聞き、さくら通りの会社では業務を終了して、17:00頃事務所前で解散となりました。

JR根岸線「関内駅」はシャッターが閉まり、周りがロープで囲われています。構内の天井の蛍光灯が壊れておちたりする被害があり、危ないので駅に近づかないようにという説明がされています。電車も止まっていて復旧の見込みは立っていないということでした。

何と現金をほとんど持っていなかったので、早速、銀行ATMへ寄ってお金を千円札で下ろしました。そのままカフェテリアで珈琲とサンドイッチを頼んで腹ごしらえ。そして、コンビニエンスストアで水を求めました。
あんなに揺れたのに、銀行ATMは何の障害もなく、あちこちのコンビニエンスストアも散らかっている様子は全くありません。

外が暗くなってきて、いよいよ”歩いて帰るぞ!”と決意。国道21号線を南へと歩き始めると・・・歩道は肩が触れ合うくらい大勢の人が歩いています。ずーっと歩く人が繋がっていて、追い越すことも難しい感じです。一方、車道はバスも車も渋滞してほとんど動いていません。
約1時間ほど歩いた頃、道路沿いの商店や民家の電気がついていないことに気付きました。交差点の信号が先行きを知らせてくれます。1ヵ所だけ皓々と明りが灯っている建物があったので不思議に思っていると、そこは病院でした。きっと病院は自家発電なのでしょう。その病院の入口にある公衆電話には、人が順番待ちで並んでしました。携帯電話は何度も掛けても繋がらないからでしょう。(さくら通りも歩きながら何度も何度も掛けましたが、”しばらくお待ちください”と表示されてしまいました)

停電地域を抜けて我が家のひと山裏にあるコンビニエンスストアまで来た時、この週末に食べる物を用意しなくては・・・と思いついて、パンや牛乳を買いました。ずっしり重い荷物を持って坂道を登り、汗だくの状態で我が家にやっと到着。歩き始めてからちょうど2時間です。
(徒歩2時間は、歩いて帰宅した人の中では近い方だったのではないでしょうか。)

たどり着いた我が家(マンション)は、関内地域と違って全く亀裂もありません。鍵を開けて家の中へ入ると、今朝、家を出た時と何ひとつ変わりません。落下したものや動いたものもなく、あった通りの場所にきちんとモノが置かれています。電気・水道・ガスも問題なく使えました。さっきの地震がホントにあったのか?という気持ちになりました。

まだ余震があるので水の汲み置きをして、とりあえずコンビニで買ったパンを食べながらテレビをつけると・・・想像を絶する規模の災害になっていることを初めて知ります。
インターネットでは、電車はほぼ全面運行していない状態、たくさんの小学校や公共施設が避難所として提供されているなどの情報が入ってきます。まだ帰路にあるだろう仲間へ(電話は全くつながらないので)メールで送信してきます。もしも困っていたら、この情報が届きますようにと祈るような気持ちです。

刻々と変わる状況をメールで流しながら、夜が更けていきました。

エクシブ